株式会社ヤマニの社名の由来
株式会社ヤマニのルーツを紐解くと、いまから150年ほど前、江戸時代末期にまで遡ることができます。商業の発展に伴い隆盛した物流業のなかでも、大量の商材や人々を運ぶ商船業の勃興には当時目覚ましいものがありました。武士の時代の終焉を悟り、刀を捨てそんな商船業のひとつである廻船問屋(荷主と船主の間を取り次ぐ中間業者)の道を選んだのが、ヤマニ現社長の中澤貞充から遡ること四代、高祖父にあたる中澤嘉兵衛。日本橋小網町に「中澤回漕店(回漕店は廻船問屋の別称)」を開いた嘉兵衛は、川越藩の藩士の身分を捨て、商人として激動の時代を歩み始めたのです。
当時の廻船問屋は問屋により扱う商材が決まっていましたが、中澤回漕店が扱っていたのは藍玉と呼ばれる庶民の着物を藍色に染めるための染料。藍の葉を発酵・熟成させた蒅(すくも)を運搬しやすいように固めて乾燥させたもので、商船業の発達により全国で盛んに取引されていました。また当時の商店は屋号を付ける慣習があり、嘉兵衛が付けたのが「ヤマニ」。これは一般的だった縁担ぎの意味がある記号を用いた略号であり、商売の盛り上がりや積み重なりなどを意味するへの字状のカンムリ「ヤマ」と漢数字の「二」を組み合わせたものです。そこには嘉兵衛の「山(ヤマ)のように荷(ニ)が積み上がり、商売が繁盛するように」という願いが込められていたに違いないでしょう。その屋号は社名として、また藍玉の藍色はロゴマークなどのコーポレイトカラーであるネイビーとして、現在まで受け継がれています。
そんな中澤回漕店は創業者の嘉兵衛から二代目の宇兵衛、三代目の豊太郎へと引き継がれましたが、世界恐慌の影響によって起こった昭和恐慌の渦中に廃業。豊太郎の二人の息子のうち、長男はのちの第二次世界大戦で帰らぬ人となりますが、まだ十代だった次男の春吉は4人の妹たちを養うべく、戦火の最中である1941年に自ら商売を始めることを決意します。そして代々受け継いだ商才と次代を切り拓く精神を発揮し、戦後の混乱期に服装用ベルトを始めとする様々な物品を取り扱い、商売を軌道に乗せることに成功。1948年には現社名である「株式会社ヤマニ」へと改組し、現在のバッグや革小物製造における発展の礎を築いたのです。